沖田 総司

新撰組一番隊組長

新撰組の一番隊は精鋭が集められ最も重要な任務をこなしていたとされています。芹沢鴨の暗殺、内山彦次郎の暗殺を手がけたとされています。「天然理心流」の剣客であり、新選組最強と呼ばれ鍛えられた足腰と素早い動きからなる「三段突き」は、あまりの速さゆえ3回が1回に見えるほどだったと伝えられます。

元治元年(1864年)の池田屋事件においても最初に踏み込んだが奮戦の最中、喀血により戦線離脱したと言われている。

体調悪化により第一線で活躍することがなくなったのは慶応3年(1867年)以降、鳥羽伏見の戦いには参加出来ず大阪に護送される船中において肺結核を発症したともされている。

以後は幕府の医師、松本良順により千駄ヶ谷の植木屋に匿われ、近藤勇斬首から2ヶ月後の慶応4年(1868年)に死去。近藤の死を知らないまま亡くなったとも言われてます。

享年については諸説あり、没時年齢については沖田家累代墓碑の24歳、沖田家文書の25歳、「両雄士伝」における上洛時の年齢(22歳)から計算した27歳の3説が存在。墓所は東京都港区の専称寺にあり、戒名は「賢光院仁誉明道居士」。

植木屋平五郎宅
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