永倉新八

新撰組二番隊組長

下段の中央が永倉新八

近藤勇らと浪士組に参加し新撰組結成後は二番隊組長や撃剣師範を務め中枢を成した人物。

元治元年(1864年)池田屋事件では近藤勇、沖田総司らと共に突入し沖田総司、藤堂平助が離脱後も左手親指に深い傷を負いながらも刀が折れるまで戦った。慶応4年(1868年)鳥羽伏見の戦いでは決死隊を募って刀一つで突撃する豪胆さを見せていた。

明治6年(1873年)家督を相続し杉村治備(後に義衛)と改名。北海道小樽に移り警察官僚の月形潔の招きで明治15年(1882年)から4年間、樺戸集治監(刑務所)の剣術師範を務め看守に剣術を指導。退職後は東京牛込で剣術道場を開いていたが明治32年(1822年)妻子が小樽市内で薬局を開いていたため再度小樽へ転居し東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)の剣道部を指導していた。

明治時代には「浪士文久報国記事」「七ヶ所手負場所顕ス」を記す。小樽新聞記者の吉島島力の取材に協力し「新撰組顛末記」を残し、これによって「新撰組は悪の人斬り集団、悪の使者」という従来の固定概念が崩れ新撰組再評価の契機となりました。晩年は映画を好み、孫を連れてよく映画館に通っていたとされています。

大正4年(1915年)1月5日、虫歯が原因で骨膜炎と敗血症を併発し死去。享年77。

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