新撰組 副長 土方歳三

近藤勇の右腕として新撰組を盤石な組織にするために、規律を破る者は容赦なく切腹させたため、土方歳三は「鬼の副長」と呼ばれていました。

少年時代から武人として名を上げたいという想いが強く「バラガキ」(乱暴者)と呼ばれるほどのヤンチャ坊主だったそうです。

1863(文久3)年、歳三28歳のとき、時の将軍・徳川家茂が上洛(京都へ行く)することとなり、それに伴って江戸では幕府が将軍警護のために剣術の心得があるものを募集しました。これに歳三は勇らとともに手を挙げ「浪士組」として参加し、京都郊外の「壬生」という場所に本陣を構えます。この浪士組結成を呼びかけたのは清河八郎という人物でした。実は清川には浪士組結成に将軍警護とは別の目的を画策しており、そのことを知った勇や歳三は、清河とは袂を分かつことを決意します。「新選組」の前身となる「壬生浪士組」が生まれた瞬間でした。彼らはその名の通り浪士の集団であり、直接に仕える主人はいませんでしたが、当時「京都守護職」を務めていた会津藩主・松平容保(かたもり)の支配下に入ることとなり、そこで「新選組」という名前を賜ります。

新撰組の有名な事柄として、池田屋事件は1864(元治元)年7月8日、京都三条木屋町(三条小橋)の旅籠・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派の志士を新選組が襲撃した事件。志士7人が死亡し、23人が捕縛(推定)されました。この事件で新選組の名前は京都中に広がり、目的達成のために手段を問わない暗殺集団に多くの人は恐怖したと言われています。

1868(明治元)年1月、新政府軍と旧幕府軍による鳥羽・伏見の戦いが起こります。このとき病床にあった勇に代わって歳三は隊を指揮しますが、新政府軍の攻撃に敗走を続けます。この時期から新選組はほぼ組織として壊滅しており、生き残った隊士はちりぢりになりつつ各地を転戦しました。

同年4月には、勇が江戸(東京)・板橋で官軍に斬首処刑されます。歳三も東京に戻って幕府主戦派の一隊と合流しますが敗れ、さらに宇都宮、会津と転戦を続けます。

戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、軍事治安部門の責任者に任ぜられて指揮を執った。明治2年5月11日(1869年6月20日)戊辰戦争の最後の戦場になった箱舘五稜郭の防衛戦で戦死。五稜郭で抗戦中、郭外で流れ弾に当って戦死しました。

享年35(34と記載の資料もあります)

土方歳三最期の地碑(函館市若松町)

新選組結成からわずか6年余り。太く短く、輝いた男の生涯でした。強さを見せつける一方、歳三は普段は温厚な人柄で、また容姿端麗であったために京都の女性たちから人気を集めていました。また、和歌や俳諧を嗜むなど風流人の要素もあり、彼の句は『豊玉発句集』としてまとめられています。

墓は故郷・日野市石田の石田寺にいまもあります。

東京都日野市石田 石田寺(せきでんじ)
新撰組祭りの様子です。

ワンちゃんも新撰組になりきってますね。
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