新撰組局長 近藤 勇
近藤 勇は江戸時代末期の武士で新撰組局長。後に幕臣に取り立てられ、甲陽鎮撫隊隊長。勇は通称で 昌宜(まさよし)という。慶応4年(1868年)からは大久保 剛を名乗り、後にさらに大久保大和と改めた。家紋は丸の内に三つ引。天然理心流四代目宗家。
近藤勇は1834年(天保5年)、武蔵国多摩郡(現在の東京都調布市)の農家「宮川久次郎」(みやがわきゅうじろう)の三男として生まれました。幼少から肝が据わっていたと言われています。
江戸で道場経営に専念していた近藤勇でしたが、1863年(文久3年)に転機が訪れます。江戸幕府による浪士組募集の呼びかけに応じ道場の仲間を率いて上洛。しかし近藤勇一行が京都に着くなり、清河八郎から浪士組は将軍の警護ではなく尊王攘夷活動が本当の目的であることを告げられ近藤勇の浪士組への加入は空中分解となってしまいます。そして近藤勇らは多くの隊士が江戸へ帰る中で京都への残留を決め京都守護職を務めていた会津藩を頼ります。ここに新選組の母体となる壬生浪士組が誕生し近藤勇は局長に就任することになります。当時局長は3名おり近藤勇は筆頭局長の芹沢鴨を支える立場でしたが芹沢鴨のたび重なる蛮行を問題視した会津藩から粛清の命が降りると土方歳三らと決行。そのあと新選組におけるただひとりの局長として君臨することになったのです。
1864年(文久4年/元治元年)に起こった池田屋事件では尊王攘夷派の中でも過激派の志士達が秘密裏に会合を開いていた旅館「池田屋」に少数の部下を引き連れて乗り込み多くの尊王攘夷派の志士を捕縛そして斬殺しました。
この事件により近藤勇は、新選組と自身の名を天下に轟かせます。これを機に新選組の役割は広がり京都の治安維持に加えて江戸幕府の諜報機関としての任務にも従事。
慶応元年(1865年)9月16日、将軍・徳川家茂は上洛して二条城に入り、9月21日には京都御所へ参内して長州再征の勅許を得る。再征勅許の獲得により幕府では大目付・永井尚志を長州訊問使として派遣することを決定し、長州側との会見場所が安芸国広島の国泰寺(広島県広島市中区)に決定した。近藤は会津藩を通じて訊問使への同行を願い出て許可された。なお、同年11月4日付の佐藤彦五郎宛書簡では訊問使随行のことなどが記されているほか、天然理心流の後継者を沖田総司とすることなども記されている。
近藤は武田観柳斎、伊藤甲子太郎ら隊士8名とともに11月7日に大坂を立ち、11月16日に広島へ到着する。11月20日に永井は近藤らを自らの家臣として長州派遣を要請するが長州側にこれを拒否され、さらに11月22日には永井は近藤らを長州側との折衝役とし近藤らは長州藩側の宿舎に赴いているが面会を拒否されている。近藤らは11月23日に長州藩士との面会を果たし12月11日には長州入りを要請するが再び拒否されている。12月15日に近藤らは長州藩の支藩・岩国藩領の新湊(山口県岩国市新港町)において岩国藩との会談を要請するが、これも拒否されている。近藤らは長州入りを断念し12月22日に京都に帰還している。
慶応2年(1866年)正月22日、幕府は長州藩に対する処分を決定し、老中・小笠原長行を広島へ派遣する。正月27日に近藤は伊東、篠原泰之進、尾形俊太郎とともにこれに随行し、2月3日に広島へ到着した。2月16日に近藤は広島藩士と交流のある伊東を介して岩国藩士・塩谷鼎助との会談を要請するが、これを拒否されている。同年6月7日には第二次幕長戦争が勃発するが、7月20日に将軍家茂が大坂城で急死したため、8月21日に勅命で長州征伐が停止される。
1867年(慶応3年)、正式に江戸幕府の「直参」(じきさん:主君[ここでは江戸幕府のこと]に直接仕えていた者)となり、諜報活動を通じて薩摩(現在の鹿児島県)・長州両藩の武力討幕情報を入手。この情報をもとに、江戸幕府15代将軍 徳川慶喜が大政奉還を断行します。
1868年(慶応4年/明治元年)に、徳川慶喜率いる「旧幕府軍」と薩摩藩及び長州藩が中心となって結成された「新政府軍」の間で、戊辰戦争が勃発。
その初戦となった鳥羽・伏見の戦いにおいて、旧幕府軍に属していた新選組が敗れたあと、近藤勇は、江戸幕府直参の旗本として、「大久保大和」(おおくぼやまと)に名前を変更。「甲陽鎮撫隊」(こうようちんぶたい)を組織して進軍しますが、現在の山梨県甲州市で敗走します。
そして、現在の千葉県流山市で新政府軍に投降すると、1868年(慶応4年/明治元年)4慶応4年4月25日(1中仙道板橋宿近くの板橋刑場で斬首された。享年35(満33歳没)。近藤勇の首は処刑場で晒されたのち京都の三条河原でも晒されています。「忠誠心で節義に殉じる」そして「死を以って恩義に報いる」旨を詠んだ、2首の漢詩が近藤勇の辞世の句でした。その後の首の行方は正式に確定されていない。
墓所
東京都北区の板橋駅東口前の寿徳寺境外墓地(永倉新八により建立。処刑場の近隣)
東京都三鷹市の龍源寺(上述の出身地、現・調布市野水のすぐ近く。辞世の句碑もあり)
福島県会津若松市の天寧寺(土方歳三が遺体の一部を葬った)
山形県米沢市の高国寺(近藤の従兄弟・近藤金太郎が首をひそかに持ち帰り埋葬
愛知県岡崎市の法蔵寺に「近藤勇首塚」がある。
ディスカッション
コメント一覧
きたきたきたきたきたーーーーー!!!
局長ーーーーぅぅ!!!
やばい!かっこよーーー!!!
とりあえず3回読んだ!
あと12回は読みたい!!!
いっぱい読んでから落ち着いて局長への愛を語りたい!
花糞太夫さん
お待たせしました、大変遅くなってしまい申し訳ありません…しかも文字ばかりで…😣 ゆっくり楽しんでくださいね 😊
かーーーーっ!!
好きすぎてまた見に来ました!!
今後もまた来るかもしれません!
新撰組の本や映画など、局長はなかなか「人間味」のある描き方をされることもあり、歳クンや沖田クンの方が「カッコよい壬生浪」「これが武士」みたいに描かれますけども、私は!あえて!局長の!人間味のあるところが!好きなのです!!
そもそも、歳クンと沖田クンが心底惚れていたという所が、局長の魅力を証明しているのであります!!
あと、顔!ていうかお姿全部!
とにかくカッコよーーー!!!
俺も新選組好きで、実は誠さんにお願いして出して貰ったんだ。
俺の生まれた育った町が同じ武州多摩の地域で、心情的に理解出来るものがあるんだ。
近藤勇は途中から方針が変わっちゃったりして、あんまり良く言われてない事が多いけど、自分としては理解出来るんだよね。
何が正しいか何が間違ってるのかなんて、今だから言える事がいっぱいあると思うから、俺は新選組もかっこ良かったって思ってるんだ(^^)