斎藤 一
新撰組三番隊組長
幕末末期に新撰組で副長助勤、三番隊組長、撃剣師範を務めた。
元治元年(1864年)の池田屋事件では土方歳三隊に属し屋内に切り込んで奮戦。慶応4年/明治元年(1868年)鳥羽・伏見の戦いを皮切りに旧幕府軍と新政府軍との間で戊辰戦争が勃発すると新撰組は旧幕府軍に属して各地を転戦。北上しながら会津へと至ります。ここで負傷した土方歳三に代わり新撰組隊長として指揮を執りますが白河口の戦い」「母成峠の戦い」などで敗戦。会津藩が降伏したあとも徹底抗戦を続けますが、会津藩主・松平容保の説得でようやく投降し、新政府軍の捕虜となるのです。戊辰戦争の終結後は、しばらく会津に留まり、「藤田五郎」に改名。
明治維新後は警視庁の警察官となり西南戦争では警視隊に所属し西郷隆盛軍と戦った。明治25年(1892年)12月警視庁を退職し退職後は東京高等師範学校(現・筑波大学)の守衛、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の庶務掛兼会計掛を務めていた。出自、経歴は不明な点も多い。
大正4年(1915年)9月28日、胃潰瘍のため東京府東京市本郷区真砂町で死去。享年72。
会津への思いが強かったからか会津には斎藤一の縁の場所が沢山あります。
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